R-1グランプリで感じた「笑い」の本質。

昨日、ピン芸人No1を決定する、「R-1グランプリ」が開催されているのを視聴した人はいますか?
ネットでは番組の進行や、審査員などに対する酷評が目立ちますね。
私も最後まで見ていましたが、時間の枠もあったせいか、せわしなく感じました。
とは言え、最後ゆりやんが優勝したときの涙はこちらも感動しました。
さて、このような「お笑い賞レース」はいつから始まったのでしょう?
そもそもきっかけは、2001年に開催された「M-1グランプリ」だそうです。
今やテレビ業界から姿を消してしまった、吉本興業の某有名芸人と、プロデューサーが発案し、再び漫才ブームを起こそうという狙いがあったみたいですね。
その某大物芸人が、当時、
「M-1グランプリを考えるようになった理由は、お笑い芸人たちの『ことば』が弱くなってきたからである。強い『ことば』を築くためには『戦いの場』を設定しなくてはならない。
戦うことでしか人は強くなれない。
芸人を倒す相手を見つけなければ強くなれない。」
と考えたようです。
芸人同士が鎬を削り、お互いを高め合うことに関しては、一視聴者としては熱がこもります。
ただ、こうした競争がうまく機能するためには、2つの条件を満たさなければなりません。
1つ目は、
「競っていることの同質性」
2つ目は、
「勝敗の判定基準の明確性」です。
ここで、「お笑い」にそもそも点数を付けるということに違和感を覚える人もいるでしょう。
人によって感じ方は様々なので、例えばフリップ芸をやった芸人と、ものまね芸をやった芸人にたいして、どちらが面白いかなんて、「ハンバーグとラーメンはどちらが美味しいですか?」と言われているようなもの。
昨年のM-1グランプリでも、「漫才か漫才じゃないか論争」が起こったり、数年前には、審査員を侮辱するという動画を公開したことで物議をかもしました。
「お笑い」というものを賞レースにするという矛盾のうえに成り立っているんですよね。
今回のR-1グランプリでも、途中から審査員の意見を聞く間もなく、決勝では誰が何点入れたのか分からないという始末に、視聴者は不満があったのでしょう。
とは言え、その大会を目標に頑張ったり、切磋琢磨してモチベーションが上がるなら、お笑いの質も上がるだろうし、
なんだかんだ注目してしまうでしょうね。
お笑い好きの私としては、「漫才」が好きなのですが、漫才というのは「ボケ」と「ツッコミ」がいて成り立っていて、その中で不自然さを作り出して、笑いに変えて解放するというプロセスでなりたっています。
それを一人でやるピン芸人は本当に個性的で多彩だなぁと思いました。
今回のゆりやんの予選のネタのように、自分がボケて自分でツッコむという「ノリツッコミ」するネタで、1人なのに両方の役割を担っていて、漫才を見ているようでした。
批判もあるし、「面白い」か「面白くない」かは賛否両論あると思います。
だけど、それを「見る」か「見ないか」の選択権は視聴者にあるので、見たくなければ見なければいいんです。
「笑う」のは人間だけです。
批判するのも自由ですが、せっかくなら純粋に自分が面白いと思うものをみて、笑えばいいと思うんです。
私は、毎日ほぼ欠かさず、「お笑い」をYouTubeなどで見ます。
「笑う」ことでNK細胞を活性化させ、免疫力を高め、脳も活性化し、
血行も良くなって、自律神経のバランスも整い、腹筋も鍛えられ、
エンドルフィンが分泌されて幸せになれます。
私は日常生活の中で、いかに「笑い」を見つけるかを意識しています。
自分の失敗談であったとしても、「ネタ」になるんです。
日頃から「笑顔」を大切にしてることは、自分にとっても相手にとっても幸せをもたらすことだと思っています。
そんな笑顔を大切にしていきたいと改めて感じた日でした。
なんの話?(笑)
いや、コーチングの中でも、「笑う」ことで相手がリラックスしたり、話しやすい環境をつくりことにも有効なんですよ!
無理やりこじつけたみたいですが、良かったらお笑い大好きな私のコーチングセッション、是非体験してみてください(^^;