生きる意味を考える。

私が看護師になって、最もつらかったことは、目の前で人が亡くなったときです。
「人はいつか死ぬ」という現象を、もちろん頭では理解していても、実際目の前でその現場に立ち会うと、何もできない無力さや、命の儚さを痛感します。
そんな経験を繰り返し、「自分はなんのために生きているのか」ということを問うことがありました。
家族のため?友人のため?悲しむ人のため?
色々考えても、答えはでなくて、自分を責めたり、生きる希望を失っていたころもありました。
大阪大学の池田三穂教授は、「生きる意味」について、こう記しています。
ところで人間はなぜ生きるのでしょうか?
死んでも仕方がないから? でも生きているかぎり必ず死はやってきます。
人間だけが、意思をもって自らの命を絶つことができます。
だけど、なぜそのような人間らしい死を選ばすに、なぜ人間は生き続けなければならないのでしょうか?
人間は生きている限り、生きることの意味を探究し、それに窮しているからです。
では、生きることの意味を発見し終われば、死んでもいいのでしょうか?
そうはなりません。
生きることの意味を発見した人は、その意味に具体的な形をあたえるための探究がはじまるからです。
だから、死んでいてはおれないからです。
したがって、人間は生きているかぎり——たとえそれが外部から観察できないものであっても、またそれが他人からみて「生きるに値しないも の」と思われるせよ——、生きていることの意味を探究している(あるいはそのような権利がある)から、強制力によって命を絶つことは禁じられなければなり ません。
それでは・・・
文化人類学者としての私の〈生きることの意味〉とは何でしょうか?
それは、人々の〈生き方=生活〉の諸相を体験(=フィールドワーク)を通して学んでいる職業柄、私にとっての生きることの意味は次のとおり です。
人間は生まれる過程のなかで社会という環境の中で生きます。社会は人間がつくるものですが、社会もまた人間にさまざまな経験を与えます。
人間がよりよく生きたいと考えた時、人々は社会を変えようとしますが、その人間の営みの根源は社会が育んできたものでもあります。
このような因果的循環のプロセスをその世界に生きる我々は変えることができますが、また同時に、完全に自分の思うままに変えることはできま せん。なぜなら、社会的制約が我々の創造力の制約でもあるからです。
このような不可能と可能のせめぎ合いのなかに我々の人生があります。
私は、そのようなダイナミックな動きに本当に感動を覚えます。
そして、そのような動きの一端を社会調査を通して自ら体験する時、喜びを覚えます。
それが私が最近発見した、私自身の生きる意味です。
池田光穂「生きることの意味:人はなぜ生きるのか?」
「生きることの意味」とはとても深いですよね。
普段生活している中であまり意識しないことかもしれません。
だけどもし、「生きる意味」を見出せない人がいるとすれば、その人の「生きる意味」を一緒に見つけたいと思っています。
「たかがコーチング」に、どれほどの力があるかは、分かりません。
だけど、このコロナ禍の状況で、たった一人でも、癒すことができるのであれば、私は全力でサポートします。
「看護師コーチ」になると決めたからには、どんな状況にある人でも、手を差し伸べたいです。
是非、一人で抱え込まず、話しを聴かせてください(^^)
体験セッションを無料で提供しているのも、まずは多くの人にコーチングを知ってもらいたいからです。
お気軽にお問合せくださいね♪
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